巧みに積み上げられた石垣の上にどっしりと構える天守閣。最上階からは、遠く阿蘇の山並みが一望できます。
石積みの工法から完成時期の違いがわかります。
熊本城の石垣は「清正流(きよまさりゅう)石垣」「扇の勾配
(おおぎのこうばい)」「武者返し(むしゃがえし)の石垣」等と称されます。清正は穴生衆(あのうしゅう)と呼ばれ
る近江の石工集団を使い石垣を積んだと言われています。
穴太衆(あのうしゅう)は物部氏の流れをくむ技術者集団であり、当時は主に寺院や城郭などの石垣施工で知ら
れるようになった石工集団で、邪馬台国以前、旧約の民こと徐福の一団の来日以降から活躍し、古墳築造、製
鉄等を行っていたエンジニア集団の末裔。信長の安土城、天空の城こと竹田城、近江の明智家の坂本城、井伊
家の彦根城の石垣を手掛けたのも穴太衆。これら以外にも、江戸城、大坂城、名古屋城など全国の8割以上の
築城で穴太衆が活躍しました。
穴太衆の石積みの技術は、「打ち込みハギ」と呼ばれ、石を積みやすく加工し、大きさの異なる自然の石を巧み
に組み合わせて石垣の面を構成し、大小の石に関わらず外に見えているのは極く一部で大半は土に埋もれて強
固に石垣を支えている。石と石の隙間に填め込まれた間石(あいいし)も石を積む時に奥から埋めこんで有るの
で押しても引いても動く事はなく堅牢であり、また手がかりを少なくし登りにくくする工夫をした積み方です。
古代エジプト、古代ローマ、秦時代の中国の建造物にも共通点を見つける事が出来ます。
大小天守の石垣の境目をよく見ると、小天守石垣は大天守石垣に寄りかかっているのがわかります。つまり大天
守の石垣が完成したあとに小天守の石垣が積まれているのです。
また大小天守の石垣の曲線を比較すると、小天守の方が急な角度で立ち上がっています。両者の隅石(角の石)
を比べると、大天守が同じ位の大きさの石を積んでいるのに対し、小天守は長方形の石を交互に積んでいます。
これを算木(さんぎ)積みと言い、より急角度な石垣を積むことができるのです。1600年前後は全国的な築城ブー
ムで、飛躍的に技術革新が進みました。大天守成立後、小天守増築までの間に算木積みが開発されたのです。