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本日夜10時放送のNHK『風雲!大歴史実験』
本日(3/24)夜10時放送のNHKドキュメンタリー
『風雲!大歴史実験』。

番組で使用の【長柄槍(長さ6m超)】の
【レプリカ】において製作協力させて頂きました。

番組に登場する槍は、納期が僅か2週間!
という無茶振りな状況下で作った
【レプリカ槍拵(飾り物)】ですので、
本物の槍拵のような強度はございません。

ご覧になる方は、そこんとこ宜しくです。




| 歴史関連 | 03:37 PM | comments (0) | trackback (0) |
現在、製作中の【三尺・大薙刀】。







現在、製作中の【三尺・大薙刀】。

現時点で、下研ぎの中名倉研まで行い、
樋彫りを行ったところです。

切先先端から茎尻までの長さは六尺。
柄を付けると更に長くなります。

※詳しくは以下のページにてご覧下さいませ。

http://www.higotora.com/naginr.htm




| 歴史関連 | 07:12 PM | comments (x) | trackback (0) |
模擬刀(居合刀)の製作例 【真剣樋彫り仕様】
模擬刀(居合刀)の製作例。
真剣樋彫り、銀無垢本ハバキ、本煤竹目釘、
銀無垢製の縁・頭・鐺3点揃い金具を採用し
た事で、随分、引き締まって見えます。

※詳しくは以下のページにてご覧下さいませ。
http://www.higotora.com/idsj.htm





<肥後虎同田貫235・フルオーダーメイド>
**************************************************
■刀身:同田貫(厚口刀)コンプリートベース
■刃長:2尺3寸5分
■樋:切先・真剣樋彫り+ハバキ下迄掻き流しの樋彫り
■刃文:直刃小乱れ
■ハバキ:銀無垢・祐乗ハバキ
■鍔:お客様お持ち込み品◆◇◆
■目貫:独鈷剣・銀古美(銀無垢製)
■縁頭:天正・銀古美(銀無垢製)
■鐺:天正・銀古美(銀無垢製)
■鮫皮:黒・本鮫皮
■柄長:8寸5分
■柄太さ:普通
■手サイズ:縦(ご指定値)横(ご指定値)
■柄糸:本牛革・裏革・焦茶
■鞘塗り:黒石目・上
■鞘補強:水牛角による鞘切れ防止加工
■切羽:真鍮・銀仕上げ
■下緒:正絹・焦茶・本織り
■栗形シトドメ:真鍮・銀鍍金
■目釘:1本・本煤竹製・垂直打ち
■刀身保護コーティング:有り

<刀身スペック等>
■元幅: 約33.4mm
■元重: 約8mm
■先幅: 約24.7mm
■先重: 約6mm
■切先長:約39mm
■鞘を払って振る時の重量:約938g
■総重量:1,212g
**************************************************


| 歴史関連 | 11:54 PM | comments (x) | trackback (0) |
瓢箪鯰


京都・妙心寺の退蔵院に、日本最古の水墨画で
【瓢鮎図】という名画があります。

この水墨画は、室町時代、禅僧であった如拙
が、将軍足利義持の命で描いた禅画です。

「どうすれば瓢箪で鯰が捕らえられるか」と
いう禅問答の「公案」とその「悟りの契機」
を表したもので、将軍義持は当時の京都五山
の禅僧31人を集めて参詩を書かせました。
あまりに難解で禅僧達を悩ませたそうです。

以後、町人達の間では、とらえようのないこ
とを表わす諺として【瓢箪鯰】という言葉が
生まれました。

そもそも、この絵が描かれた背景には、当時、
度々日本列島を襲った大地震の存在と、地下
の鯰が地震を起こすという民俗信仰、そして,
それを抑え込みたい人々の思いがありました。

【鯰=地震】という考え方は、日本書紀の
時代にまで遡る事が出来、日本では古くから
ある民族信仰です。

安土桃山時代、豊臣秀吉が伏見城築城の折、
家臣に当てた書状に「鯰による地震にも耐え
る丈夫な城を建てるように」と書いたことも
知られています。(秀吉の馬印は【瓢箪】)

江戸時代、宮本武蔵が愚堂禅師をたずねて
参禅した際、この瓢鮎図を前に自問自答し、
その時の経験が、瓢箪鯰をモチーフとした
刀装具(鍔や目貫)の発生につながります。
しかし、宮本武蔵がこの公案の答えに辿り
ついたかどうかは、定かではありません。


では「どうすれば瓢箪で鯰が捕らえられるか」
この公案に、どう答えたら良いのでしょうか。

意外にもその答えは、古神道で解き明かす事
が出来ます。

まず、この【瓢鮎図】を置いている寺の名前
【退蔵院】から、【胎蔵】というキーワードが
浮かび上がります。

古神道では、瓢箪は生命の壺、すなわち母胎
(胎蔵)を表し、生命活動の永遠性と、完全無欠
の宇宙を象徴するものです。

全ての物は宇宙の中に存在する物ですので、古
神道的には鯰は既に瓢箪の中にある事なります。
取り逃がす事も無ければ、捕まえる必要すらあ
りません。

よって「どうすれば瓢箪で鯰が捕らえられるか」
の答えは「宇宙の原理を知る」となります。

如拙も空海同様に、漢波羅の心得がある特別な
僧であった可能性が高いので、【瓢鮎図】の狙
いは、そんなところかもしれませんね。


仏教では「すべては空(無)であり、空は物と
して現れる」と教えています。
非科学的なお話のように聞こえますが、実は最
新の物理科学がこれを肯定しはじめています。
私達の身体や、あらゆる物質は、分子、原子、
原子核、電子、更に細かく見ていくと、そこに
は何も存在しない、まさに空であるという事に
気付きはじめています。
では「空の正体は何であるか」。その答えは、
「宇宙の原理を知る」ことで、導き出せるの
かもしれませんね。


(文:脇田泰彰『尾治・会報しらとり・第17010号』コラム)


<補足>
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この『瓢鮎図』を所蔵している退蔵院の建物は、も
ともと波多野義重邸内に創建されていたものを、後
に妙心寺境内に移築したものです。
波多野義重(秦氏族)は、曹洞宗開祖・道元のメイン
スポンサーであり、義重の子孫は今でも曹洞宗の
檀家筆頭。実は波多野義重も、道元も、同族です。

なぜ古神道において【瓢箪】=【生命の壺】であるか
は、丹後一ノ宮「元伊勢」籠神社の奥宮である真名井
(マナイ)神社の歴史や、古い呼称を調べて頂けば、
ご理解頂けると思います。

今年(2014年)は陰陽和合の年、今まで隠されてき
た物事が出てくる年でもあります。
象徴的な出来事が10月から起こり、それに同期する
形で、建て替えと移動が行われ、年末に完了します。
キーワードは【13】。これは忌数ではありません。
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| 歴史関連 | 02:53 AM | comments (x) | trackback (0) |
梅の花


妙興寺の梅の花が咲きました。

実はこの梅、とても歴史がある梅です。

時は南北朝時代。妙興寺を開山した円光さんが、
熱田神宮を参拝した折、神宮の築地の修理を行い、
そのお返しとして、当時の熱田大宮司の常端さんが、
鈴置郷(現在の稲沢市矢合)の寄進し、更に梅の木
十株を妙興寺に贈りました。
妙興寺ではこれを境内に植え、建物を建て、十梅院
と名付けました。その梅の木、江戸時代頃は、二株
残っていたそうですが、今は1株を残すのみです。

今日は鶯がちょっとドモリながら鳴いておりました。

来週から暖かくなりそうです。



| 歴史関連 | 05:57 PM | comments (x) | trackback (x) |
楊貴妃(ようきひ)は大和撫子!?



楊貴妃(ようきひ)

楊貴妃は、中国唐代の皇妃。玄宗皇帝の寵姫であり、
玄宗皇帝が寵愛し過ぎたたために安史の乱を引き起
こしたと伝えられたため、『傾国の美女』とも呼ば
れています。

音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知ら
れている絶世の美女、楊貴妃。

今回は、その楊貴妃にまつわる、秘話をご紹介致します

以下はお仕事で交流のある某宮司さんからお聞きし
たお話です。


<楊貴妃・秘話>
------------------------------------------------ 

【楊貴妃は賀茂の巫女であり、晩年は日本にいた】

中国は唐の時代。
楊貴妃は、唐と大和政権の友好的な国交を画策すべく、
今で言うところの賀茂族と四川族が、共同で派遣した
大和撫子、つまり姫巫女(ひめみこ)。
本名は、吉備葛子(きびのかつらこ)。

(注:賀茂族も四川族もセム系スファラディ・ユダヤ)

(注:吉備葛子の名は、吉備と葛城という、当時の賀茂
   氏の居住地を象徴している)

そもそも賀茂族は、司祭者であると同時に、斎院制度
の管理者であり、いわば皇室御用達のお妃派遣会社。

唐の皇帝・玄宗皇帝の妻となった楊貴妃が、その美貌
と、秘術、楽器演奏、舞踊等といった様々な才能を発
揮して、玄宗皇帝を魅了し、影で諜報活動を行ったが、
楊貴妃の存在を歓迎していなかった抵抗勢力から間者
の容疑をかけられ、唐を追われる身となる。その混乱
の中、楊貴妃を命懸けで救出したのが、阿倍仲麻呂、
そして日本に連れ帰ったのが吉備真備。

(注:楊貴妃亡命に関わったこの2人は、いずれも
   賀茂系の人間。いわゆる八咫烏の系譜)

(注:吉備真備は陰陽道の聖典『金烏玉兎集』や、
  「トラの巻」の異名を持つ書物「六韜三略」を
  持ちかえった事でも知られる)

その後、国内での楊貴妃は、【葛の葉】伝説(白狐伝説)
や、九尾狐伝説や、吒枳尼天信仰へとつながる。

(注:【葛の葉】は、陰陽師・安倍晴明の母親)

尾張、山口、京都、高野山等に、楊貴妃の墓や痕跡が
あるのは、そのため。

おわり
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| 歴史関連 | 03:56 PM | comments (x) | trackback (x) |
【国宝・楠公景光】


時は南北朝時代、南朝方の後醍醐天皇に仕えた武者、楠木正成。

楠木正成の愛刀は、【景光(かげみつ)】。

通称【覗き竜景光】とか【小龍景光】とも呼ばれている。

景光は鎌倉時代の備前国(岡山県)の刀工・景光作の太刀
であり、ハバキ元に倶梨伽羅竜の彫り物があることからこの名
がある。

楠木正成の愛刀であったと伝えられていることから【楠公景光】
とも呼ばれ、現在は国宝とし東京国立博物館に収蔵されている。

現在、この太刀の刃長は、73.93cmであるが、これはいつの時代
かに刷り上げられたものであり、茎を検証したところ、元々の
刃長は 84.14 cm (2尺7寸7分7厘)程度と、かなり大振りな太刀
であった事が推測できる。

身長が6尺(182?)あったと伝えられる楠木正成が、馬に跨り、
猛々しく大太刀を振るう姿は、極めて豪快であったことだろう。



楠木正成は、自らの命も名も捨て、戦いの勝敗も功業(てがら)
も無視して、ひたすら忠の一義に徹し、湊川の戦いにて戦死。
佩刀は一旦行方不明となる。



その後、紆余曲折有り、その刀は豊臣秀吉の手に渡り、その後に、
徳川家康の手に渡る。そして幕末に至っては、なぜか大阪の農家
が持っているのを大阪の刀屋が発見し、買い上げた。

なんでも「祟って、病人が絶えない」という事で、農家が売却を
希望したらしい。

当初は正真と鑑て買い上げた刀屋であったが、いささか心配と
なり、【折り紙】を求めて、江戸の本阿弥家に鑑定を依頼した
ところ、本阿弥家はこれを【偽物】と鑑定。

その後、その刀は、旗本で、愛刀家であった中村八太夫が買い
上げるが、中村八太夫は、しばらく後に病死。

中村の死後は、中村家に出入りしていた刀剣商【網屋】がその
刀を預かり、勤王派の大名である毛利家に持ち込んだ。
毛利家は南朝の忠臣・楠公の佩刀ならばと、【網屋】の言い値
通りで買い上げた。

しかし、本阿弥家が偽物と鑑定したという情報を耳にした毛利
家は、すぐさま【網屋】を呼びつけ、厳しく叱り、その刀を
突っ返した。毛利家は、【網屋】を出入り禁止とした。

【網屋】は確信した、「やはりこの刀は祟られている・・・」

【網屋】は、徳川幕府・公儀介錯人の山田朝右衛門ならば、
首斬りが商売だから、祟りなど問題にすまいと考え、山田家
へその刀を持ち込む、山田朝右衛門は一目見ただけで、それ
を「正真」と判断し、快く買い上げた。
山田の目に狂いは無かった。

山田朝右衛門が【楠公景光】を手に入れた。
その噂は、山田が出入りしていた井伊家に伝わり、目聡い井伊
直弼は山田に詰め寄り、半ば強引にそれを買い取った。
その後間も無く、井伊直弼は桜田門外で銃弾に倒れた。
これも刀の祟りであろうか・・・

その後、山田は「あれほど熱心の直弼様が亡くなっては、もう
井伊家に置く必要もあるまい。刀を返してもらおう」と、
井伊家に出向いた。売った刀を買い戻そうというわけである。
【景光】は再び、山田家に返還された。

その後、維新を経て、明治になると、徳川幕府・公儀介錯人の
山田家は完全に失業し、【景光】を手放さざるを得なくなった。
それを山岡鉄舟が買い受けて、明治天皇に献上した。

南朝びいきであった明治天皇は、南朝の忠臣・楠木正成の佩刀
という事で、大変お気に召され、常に身近に置かれていたそうだ。



今次大戦後は、宮内庁から東京国立博物館に移され、現在は
国宝に指定されている。

以上、【楠公景光】に纏わるストーリーを伝えられているまま
に紹介したが、このストーリーには幾多の疑問が残る。
また、その刀が100%正真と立証できる証拠も無い。
しかし、それは他の国宝級の古名刀とて同じこと。

確かな事は、その刀が今も尚、愛刀家達の心を惹きつけて止ま
ないということ。

刀の前を通り過ぎて行った多くの人間達、時代のうつり変わり、
それを物言わず見守り続けてきた【楠公景光】。

その刀に、多くの人々の楠木正成公への憧れの念が入っている
事は間違いない。


(文:脇田泰彰・尾治・会報しらとり・第17002号『コラム』)



| 歴史関連 | 08:35 PM | comments (x) | trackback (x) |
妙興寺、【剣禅一致】の境地を求めて


愛知県一宮市、名鉄【妙興寺駅】から南東に歩く事3分、住宅街の
中に広大な森が現れる。

森の中には、緑豊かな庭園と多くの堂塔がひっそりと建ち並んでお
り、まるで京都の五山寺院にでも来たかのような感覚を覚える。
ここは尾張最大の禅寺【妙興寺】である。

創建当時(鎌倉時代)から残されている国宝建築はじめ、多く重要
文化財が残されており、境内全域が県指定史跡であり、中には一宮
市博物館も設置され、一般開放されている。



新陰流の開祖である上泉伊勢守信綱が、この寺で【剣禅一致】の境
地を求めて修行した。【無刀取り】発祥の地。修行道場として僧堂
が設置されている。上泉伊勢守信綱の石碑や、尾張柳生家から寄贈
された掛け軸がある。

尾張柳生家の伝承によると、刃物を持った乱心者が子供をさらい、
妙興寺の納屋に立てこもっているところ、上泉伊勢守信綱が、寺
から法衣を借りて、頭をまるめて、握り飯を2つ手に持って、乱
心者に呼びかけた。

「私は僧侶だ。仏に仕える身は慈悲を第一とする。
聞くところのよると、その子は昨夜から何も口にしていない。
この握り飯を食べさせてやってくれんか」

乱心者が手をのばした。

信綱は更に呼びかけた。

「お前も一つ食べんか」

乱心者が、手を出そうとしたその瞬間、
信綱は瞬時に乱心者を取り押さえた。

信綱は弟子の柳生宗巌に【無刀取り】を完成させるように命じた。
【無刀取り】とは、素手で敵の剣を奪って制す技である。

柳生宗巌が修行の末、この技を完成させ、信綱から印可を授かった。
この柳生宗巌が、のちの柳生石舟斎である。

この他にも寺に伝わる歴史ネタは多数あり、歴史好きなら涎モノで
あろうが、歴史好きならずとも心酔する魅力に満ちた寺院である。

妙興寺では、毎月1日と15日の夕方には、一般人も自由に参加で
きる座禅の会が行われている。参加は無料。盆と正月は休み。

境内にある【種玉院】では、茶道教室(有料)も行われている。

これだけ恵まれた環境で、自分磨きが出来る所は、そうそう無い。

現代の侍&大和撫子諸君、妙興寺で【茶禅一味】の境地を求めて
みては、いかがだろうか。


【妙興寺】
・所在地:愛知県一宮市大和町妙興寺2438  
・電話:0586−45−1973
・最寄り駅:名鉄名古屋本線【妙興寺駅】徒歩3分


(文:脇田泰彰・尾治・会報しらとり・第17000号『コラム』)





| 歴史関連 | 11:23 PM | comments (x) | trackback (x) |
【信長】という名前に隠された”シカケ”


『信長の名を解くと』

皆さんご存知の武将【織田信長】。

天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡
男として生誕。幼名は吉法師。後に 信長 と名付けられました。

今回は、この【信長】という名前に隠された”シカケ”について
お話します。

まず【信長】を”半切”で解くと【桑】となります。

信(SIN)から、頭の子音【S】を取り、
長(CHOU) から、末尾の母音【OU】を取り出します。
【S】+【OU】 = 【桑(SOU)】になるという事です。

古来日本は、【扶桑(ふそう)】と呼ばれていたので、【桑】の
文字は天下人を目指す武将の子には相応しい文字と言えますね。
事実、信長は立派な天下人となりました。

問題はココからです。

【桑】の旧字体は、【十】を上に3つ書き、下には現代と同じよ
うに【木】を書きます。

【木】の文字は、十 と 八 に分解出来ますので、その字全体を
分解すると、【十 十 十 十 八】=48 となります。

■【信長】→【桑】

■【桑(旧字体の)】から導かれる数字は【48】。

■【桑】は、立派に育てば【蚕(かいこ)】に喰われます。
 【蚕(かいこ)】は、【飼子】→【子飼(こがい)】と解けます。
 (子飼とは家来の事)

■【蚕】は、【養蚕】→【秦氏】とも解けます。

そして起こった『本能寺の変』。

『信長は【48】歳で【子飼】(明智光秀)に喰われました』

信長の名付け親の沢彦和尚、沢彦和尚を織田家に紹介した
平手政秀、そして信長を襲った明智光秀。
彼らは『皇統護持』を旨とする清和源氏の血筋で、秦氏系
【五芒星】派閥。(天津神系)

対する信長は、スの神を祭る【物部系(物部系忌部)】であり、
いわゆる【六芒星】派閥。(地祇国津神系)

【部落】とは落とされた物部氏が語源。
【もののふ】とは物部氏が語源。
信長を当時のカースト制度に反抗した部落解放者として捉えると、
信豊政権が圧倒的なスピードで天下統一を成しえた本当の理由
が、見えてくるかもしれませんね。





| 歴史関連 | 12:31 PM | comments (x) | trackback (x) |
【いちのみや大学・歴史講座開催のお知らせ】


<織田信長の戦略・戦術・用兵は、楠流兵法>

開催予定日:2013-04-13 (土)

学部 歴史学部

講座開催予定日 2013-04-13 (土)

開始時間 14時00分

講座の概要 江南市前野の吉田家に伝わる、南北朝時代の
知将楠正成の書いた兵法書「楠氏兵法書」の写本を解読
し、冊子にした田中豊先生がお話します。

予約締切時間 2013-4-13 6:00
講座詳細 江南市前野の吉田家に伝わる「楠氏兵法書」は、
鎌倉時代末期の南朝方の知将 楠正成が執筆した兵法書で、
織田信長はこれを教本として、天下統一を目指した戦いに
勝利したと言われます。

戦国時代、越前の守護代 遊佐河内守が、生駒家(信長
の側室吉乃の実家)に寄寓の際に持参したこの古文書を、
「武功夜話」の筆者 南窓庵達禅が書写し残しました。  
これは各地で盛んな「信長学」の研究資料としても、
彼の戦略や戦術の他、合理的科学的な考え方を知ることが
できる貴重な内容の本です。
この「楠氏兵法書」を解読し、冊子にした田中豊先生が、
あれこれとお話をされます。

少数の兵力で大敵を悩ませた正成流の兵の用い方が具体
的に記されている「楠氏兵法書」。
現代の企業経営にも役立つ示唆に富んだ内容ですので、
是非、若い経営者の方々にお勧めしたい歴史講座です。


◆講 師 : 元一宮市立北方中学校校長 田中 豊先生
◆日 時 : 4月13日(土) 午後2時から3時30分
◆場 所 : 一宮駅前 i−ビル3階 
 市民活動支援センター内 A・B会議室
◆会 費 :  500円 

※自動車の方は、i−ビル駐車場をご利用ください
(i−ビル駐車場は、駅正面の信号から入り、i−ビル
の向かって右側に入口があります)。センター利用者
は最大2時間まで無料となりますので、受講後、窓口
 で駐車券をご提示の上、処理を受けてください。
 自転車の場合も、i−ビル1階左側にある駐輪場をご利
 用いただき、駐車券をご提示ください。
 いずれもi−ビル駐車場以外(市営地下駐車場等)は、
 助成対象となりませんのでご注意ください。
 
◆お問合せ・お申込み
 メール info@ichinomiyadaigaku.com 
 電話 080-4227-8641
 FAX 0586-72-5445



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